はじめに
今日、私は携帯を家に置いて家を出た。 きっかけは『夢をかなえるゾウ0』を読んだこと。現代の「当たり前」から切り離されたとき、自分の心に何が流れ込んでくるのかを知りたかった。
午前中は滋賀の「びわこサウナ」で、動画編集で疲れ切った目を休ませ、自分の内側と対話した。携帯がないからこそ、オーナーとの会話はどこまでも深く、気づけば予定時間を大幅に過ぎていた。
その後、車を走らせ長浜の「盆梅展」へ。 道中、無意識に携帯を探してしまう自分に、デジタルが染み付いた不安と苛立ちを感じた。けれど、その不便な「空白」に、ブログのアイデアが次々と溢れてきた。コンビニで買ったボールペンとメモ。そこに書き留める感情は、スマホのフリック入力よりもずっと重みがあった。
樹齢40年が放つ「覇気」
盆梅展で、私の足を止めさせた一鉢がある。 樹齢200年、400年という歴史の巨人が並ぶなか、ふと目に留まった樹齢40年の『清麗(せいらい)』。
清流の流れのような姿から名付けられたその木は、細く柔らかな枝を持ちながら、周囲を圧するような圧倒的な「覇気」を放っていた。
私は今、27歳。 あと13年経って、自分が40歳になったとき。 果たして目の前のこの木のように、見る者の心を揺さぶる「覇気」をまとえているだろうか。
「真っ直ぐな木」に、私はカメラを向けない
今の私は、何でも携帯で調べ、AIに正解を求め、できるだけ遠回りをせずに「効率的な成功」を掴もうとしている。AIが示した情報を疑いもせず、最短ルートを歩こうとする。
しかし、自問自答する。 「迷いのないAIの道は、盆梅に例えるなら、ただ天に向かって真っ直ぐに伸びただけの木ではないか?」
私は、そんな真っ直ぐな木にカメラを向けるだろうか。
私は撮らない。
私が撮りたいのは、自然の中でわずかな光を探し、うねり、ねじれ、朽ちかけてもなお、自分らしく生きようとする木の姿だ。 傍から見れば「不細工」かもしれない。効率の悪い、歪んだ成長かもしれない。 けれど、そこには「自分らしさ」を1ミリも忘れていない、剥き出しの命がある。
自分の道は、自分で決める
周りがスマホで写真を撮るなか、私はメモに自分の感情を叩きつけた。 他人の目に合わせるのではなく、自分の「好き」を最優先する。 その心地よさを、梅の香りと共に噛み締めた。
お土産に買った梅酒を買った。部屋中に漂う梅の香りを書いだときに「梅酒が飲みたい」そう思った。
さすが商売上手。ちゃんとお土産売り場に梅酒が置いてあった。こんなの買うに決まっている。家族のお土産をそっちのけにレジに進んだ。
この盆梅からできた梅酒らしい。その成り立ちを知っているからこそ、格別の味がした。 情報として消費するのではなく、体験として血肉にする。それが本当の意味で「知る」ということなのだと思う。
40歳になったとき、『清麗』のように、自らの葛藤を美しさに変えるだけの人間でありたい。 そのために、私は今日も、不便で、不確実で、けれど愛おしい「自分の道」を歩いていく。



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